私の改革年表<1996-2002>
| <1996> | 市長の目線で考えろ 区役所での3年間を終え、行政管理課の行革担当になった私。本庁に来てはじめて「あー、部課長って仕事するんだなぁ」と思った。そう言ったら当時の部長は笑ってたけど。 異動した初日に当時の係長(現在の都市経営課長)から引継書をもらう。そこには上昇するヘリコプターの絵が書いてあり、「担当者の視点」から「市長の視点」まで目線を変えて物事を見なさいとのアドバイスが。思えばこの一枚が私のスタートだったようです。 |
| どう役所っぽくなくするか ダイナミックリファインプログラム(通称:DR)の担当になった私。行革をどうやるかなんて想像もつかなかったけど、イチから勉強。なかでも庁内広報誌を使ったメッセージの発信が勉強になった。役所っぽいお堅い紙面の中でDRのページはまるで週刊誌か漫画雑誌のようだった。当時の行政管理課長(現在の管財部長)の「いかに役所っぽくなくするか」「読ませる記事にするか」というこだわりだった。当時はカットのすべてを自分で描いて、レイアウトから何からあっと驚くものを目指した。広報部や広報部OBからは評判が悪かったようだが、「行政管理課のイメージが変わったよ」と言われた時は嬉しかった。私自身、行政管理課が変わらなければ役所は変わらないと思っていたから。 この頃から、小さな成功をフィードバックしていくことを覚えた。現場でやってるちょっとしたいい事を庁内広報で取り上げた。その頃から庁内に知り合いが増え、「頑張ってるね」と声がかかるようになった。 |
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| チャンスをくれた行政管理課 異動して3ヶ月、この頃には「もう3年くらいいるみたいだな」と茶化されるくらい伸びのびと仕事ができた。新しいアイデアを出したり、上司と激しい議論を交わしながら、「チームで仕事すれば、一人でやるより必ずいいモノが生み出せる」と思いはじめた。それは私が職場の皆に多くのチャンスをもらっていたためだと思う。市長の声を間近に聴きながら、「市長の視点」と「自分の視点」を見比べながら仕事をした。 |
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| <1997> | わいわいテーブル 職員参加をコンセプトとしたDRの取組みも、いつのまにか形骸化し職員の気持ちが離れているのが分かった。切り込みや具体性、実現性に欠けていたためだ。「本当の職員参加で変革のプロジェクトチームを作りたい」その思いから、残すところあと1年を切ったDRに「わいわいテーブル」という職員公募による行革チームを作った。これが私の初めてのオリジナル企画となった。当時の係長がそれを部長に説得してくれた。私自身、オーナーシップを持ってこの仕事に取り組んだ。 「チャレンジ!意識革命」をコンセプトに人事問題にも言及した始めてのプロジェクトだった。庁内に検討経過をオープンにし、意見をくれた人は名簿化してダイレクトメール「くれっしぇんど」(「だんだん大きくなる」の意)を送った。もちろんすべて手作りで、一枚一枚封筒に宛名書きをしたのを覚えている。DRで作った人脈を活用しながら、討論会などの企画もたくさんやった。「意見参加シート」と名づけた用紙で職員一人ひとりの意見で役所を変えようと訴えた。 「遊んでるのか」とか「好き勝手なこと言いやがって」といった批判もたくさん受けた。財政や職員部からも冷ややかに見られていたが、当時のメンバーや意見をくれる職員たちに支えられて活動を続けた。 しかし、結果は出せなかった。「失敗」と宣言したかった。原因は分かっていた。ポイントを絞り込まずにチームのケイパビリティ以上のメニューを総花的に書いたためだ。そして、出来上がったものも全庁のアクションにはつながらなかった。トップのコミットが一切なかったためだ。 「若い人の自由研究会」そんな程度にしか見られてなかった。浮いていたのだ。 この反省は、その後の活動にも大きく生きてくる。そして、このときの人脈は今も草の根の庁内改革を支えている。 |
| 都市経営課づくり 「行政を管理する時代から都市を経営する組織へ」そういう思いがあった。管理発想には限界があることは分かっていた。いくつかの管理部門がバラバラな方針で動くのではなく、経営部門がこれらを統括する組織になるべきだと思った。でも、そんな組織想像できなかった。そんな折、来年の組織機構を考えるための会議で行政管理課長がこの考えと同じ意見を言った。正直びっくりした。翌年から各管理部門の課長を兼務発令させた都市経営課ができることになった。このとき、「自分が正しいと思う意見は言うべきだ」と思った。独創的な先輩たちの影響か、自分も組織に貢献できるという自信が湧いた。 「都市経営」の名前は当時の部長(現在の総務局理事)がつけたと記憶している。この頃、三重県から資料を取り寄せ行政評価を部長に提案したり、都市経営とは何かを担当者有志を募って研究した。その中で、市民との関係性を変えていくことが今後の経営の中心課題になると考えるようになった。 また、「株式会社札幌市役所」の経営と「都市としての札幌」の経営という「2つの経営」を明確に意識して新しいガバナンスのあり方を考えるようになった。そんな話を気軽にできたのも、職場の仲間や上司がいろんな角度で物事を見て、考えている人たちだったからだと思う。多様性の中から新たなコンセプトが次々と発想されたエキサイティングな時期だった。 |
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| ITとの出会い 庁内の有志による「市民と行政のパートナーシップを考える」といったテーマのセミナーがあった。そこになぜか私が当時やっていた「障害の重い人たちの地域生活を考える会」の活動コンセプトを発表するハメになった。その時のパネリストには今も仲良しの“ひろえっち”さんとITに強いYさんがいた。なぜかこのYさんに気に入られたらしく、それからしょっちゅう職場に「パソコン買え」と電話がかかってきた。ある日「もうパソコン買ったか?今日ボーナスだから買って帰れ」と電話が来て、ついに私もPCを買う決心をした。思えばこれが私とITの最初の接点かもしれない。このYさんはいつも私にチャンスをくれた。 |
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| MLドリーム 「市職員によるメーリングリストがあるから入れ」とYさんに誘われた。そのMLの名は「ドリーム」。Yさんが中心になって運営されていた。完全に役所の外の世界で運営していたが、内容はいたって真面目で役所の問題点やセミナーの情報交換などが話題になっていた。ここで初めて役所にいろんな人脈があり、いろいろと考えている人が多いことに気づく。そして思いを語り合いながら、「知ってる人」が「知らない人」に知恵を分け与えていた。今で言うナレッジマネジメントである。 こういうのを役所の中で、もっと大勢でやりたいなと思った。それは後に「@る〜む」を生み出すことになる。 |
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| Star Project 民間企業の話を聴いていると必ず名物部長やビッグプロジェクトの武勇伝を聞く。しかし、市役所ではあまりそういう話を聴かない。この組織にはスターがいない。スターを作り出そう。そんな思いから一枚の企画書を作った。「Star Project」は組織に埋もれたスターを発掘し、どんどんいい仕事をさせて有名にしていこうというものだった。スターをつくれば、他の職員にも目標ができる。既成概念を破壊しながら進む姿を見せることで、あきらめ感から開放できる。スターは明るい期待感を組織にもたらす「希望の星」だ。 「失敗を恐れ、足を引っ張り合う組織」から「助け合い、スターを生み出す組織」へ。 今でも私は必ずどんな小さなことでも頑張って成果を出した人をメディアに取り上げるようにしている。 |
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| <1998-1999> | 出資団体外部評価 担当業務が行革から「出資団体(いわゆる3セク)管理」と「機構(いわゆる組織改正)」になった。 最初の3ヶ月間は憂鬱だった。あまりに3セクの経営がショッキングだったためだ。誰が責任を取るんだと愕然とした。当時の係長(今の勤労課長)と毎晩のように深酒しながら、この状況をなんとかしようと考えた。自分たちで経営評価シートを作ったりもしたが、当時の代表監査委員(会計監査法人の代表社員だった)に相談して、プロの会計監査事務所にアウトソーシングして、出資団体経営の外部評価をすることになった。多分、全国初だったと思う。各社の財務諸表をくまなくチェックし、ABCDの4段階で評価した。当時、職員部長になっていた元上司は天下り職員の退職金を廃止した。経営に問題のある団体のトップを更迭するために、市長に上申書も書いた。 この頃は、係長と二人で飲みながら「クビにされたら二人で会社でも興そうか」なんて話しながら仕事していた。それだけ思い切ったことをやったと思う。3セクの経営が悪いのは市役所の経営に問題があるからだ。これだけは事実だ。問題の本質を見る力は、この頃大分鍛えられたように思う。 |
| 機構改革基準 全庁の仕事やキーパーソンをよく知る機会となったのは機構改革の仕事だ。当時の係長はとても広い人脈を持っており、それを全部私に紹介してくれた。そして、機構改革にあたって、あるアイデアを教えてくれた。それは、これまで管理部門の裁量で行われていた機構改革の基準をオープンにしようというものだった。これは、当時画期的だった。言ってみれば管理部門からの庁内分権の走りだった。 これによって、基幹機構とスタッフ業務が明確化され、将来を見越した組織統合が進んだ。それまで組織の統廃合は年間10機構程度だったのが、この2年間に限って毎年60〜70機構を統廃合した。庁内からは機構改革だけやっても人員削減しなければ意味がないと批判も出たが、この時期の機構の整理は、組織のミッションを見据え、機能に応じた組織のあり方を整理するのに役立ったと思う。人員削減はもちろんやりたかったが、職員部の所管なので手が出ない。しかし、団塊の世代が卒業する頃には、シンプルな機構が残ることだろう。 このとき、私は機構改革基準にある1章を加えた。「ライン、スタッフ、プロジェクトチームに加えて、ネットワークを第4の組織と位置づけ、積極的に活用すること」。これはLANが整備されつつあった本市において、最も重要になるであろうと追加したものである。当時はまだ「これは入れなくてもいいんじゃないか」という意見が大半であったが、今になって考えると、@る〜むを支えた存在となっている。 いくつもの機構改革を通じて「組織は人だ」という思いもこの頃芽生えた。現場に「やる人」「思いを持った人」がいれば話を聴き、その意向をなるべく反映する形で機構改革案を作っていった。 |
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| <2000> | 行政部のリベロ 所属が都市経営室からお隣の行政部総務課に移った。事務改善、文書管理、地方分権、職員提案、附属機関管理、平和事業、事務機器管理・・・はっきり言って3人分くらいの仕事を持たされた。しかし、もちろんこれらの仕事をこなしつつ、都市経営の仕事にも口出しさせてもらえた。「リベロ」の称号をもらって、何でも首をつっこんだ。 |
| @る〜む誕生 「庁内で職員のMLをやりたい」当時、情報化推進部にいたAさん(浅野さんだけど^^;)に相談した。その頃、札幌市は市民電子会議室という冒険的な取組みを始めた頃だった(舞踏派職員小山さんとAさんの偉大な功績だ。)。Aさんは、そのシステムを内部向けに貸してくれた。しかし、どんなテーマで会議室をやったらいいか、庁内でコンセンサスが得られるか、勤務時間内に電子会議室で職員が会話して大丈夫か、など心配もたくさんあった。 その頃、有珠山が噴火した。私は急遽、有珠山の避難所支援業務の担当になり、本市職員を毎週10人ずつ現地に送りこむ仕事についた。現地では24時間刻々とかわる情勢を3箇所の避難所に勤務する職員が情報交換していた。それを見て気がついた。「ここに@る〜むを使おう!」 これは見事に的中した。毎週の職員の交代時にも、引継ぎがスムーズに行われたし、現地から必要なもの(例えば自転車とか)のリクエストをもらってすぐさま札幌から支援できた。何より現場の雰囲気がよく伝わった。これは、@る〜むにとって最大の実績となったし、200人を超えるユーザーを獲得できた。 ここから、次々と会議室をオープンした。最初は局庶務サポート会議室だった(実はここに“かわちゃん”がいた。その後、彼は海賊船の船長になる^^)。介護保険の会議室をやろうとして「まだ早い。PCを使える職員が少ない」と断られたこともあった。 しかし、当時、私とAさんと小山さんの「@る〜む3兄弟」でアイデアを出し合い、このシステムを育てていった。「俺たちはコンピュータウィルスになろう。」そう言って、ここから役所にイノベーションの機運が感染することを願った。 当時、担当していた「職員提案」をもっと気軽にできるようにと「アイデアのごみ箱」という会議室も作った。ナレッジマネジメントを進めるために「お知恵拝借!」という会議室も作った。これらは@る〜むの看板会議室に成長していった。毎月アクセスランキングを発表して、アイデアを多く出した人や職員の相談を最も多く解決した人を「アイデア王」「解決王」として発表した。@る〜むの仲間はみるみる増えていった。 庁内で職員がよく使う様式は、例規集などに示されたものを各自がワードなどで作って仕事をしていた。本当は管理部門がワードの様式ファイルを公開すれば、全庁で各担当が苦労して作らなくてもいいのだが、管理部門ほどそういう気がきかないところが多い。そこで、「無いものは作ってしまえ!」をコンセプトに「海賊版!様式マーケット」という会議室をオープンした。各担当が自分でこしらえた様式ファイルをみんなで共有しようというものだ。正規のものではないが、各自が工夫してどんどん改良したり、競いあって作るのでいいものができる。この会議室は私のお気に入りのひとつだ。 また、ひとつこだわりのアイデアとして「支持ボタン」というのを設けた。誰かの発言に「いいな」と思ったらその「支持ボタン」を押す。そうすると発言のスレッドの先頭に支持数が表示される仕組みだ。これがいい発言を促すために工夫した点だ。支持が多いと発言する人も嬉しいし、読む人も支持の多いものを優先して読むことができる。 @る〜むは、ここでは語りつくせないくらい私の代名詞といえる仕事になった。そして、仲間が爆発的に広がった。変革の機運もすごいスピードで高まった。一人ひとりの活躍が目に見え、誰かがそれに呼応してエールを送った。ここで出会った仲間が、そして今も出会い続けている仲間が、私の仕事と気持ちを支えてくれているといっても過言ではない。 もちろん、庁内では@る〜むに疑問を投げかける人も大勢いる。組合からも言われるし、エライ人からも言われることがある。(批判精神に富んでいるからね。)けれど、それ以上に多くの支持者がいることも確かだ。経営層をはじめ多くの管理職も仕事のツールとして使い始めている。「@る〜むができてから、うちの組織は変わり始めたと思う」そんな声を聴くとすごく嬉しいものだ。 @る〜むのいいところは「王様は裸だ!」って皆が言い始めたってことだろうと思う。 |
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| <2001> | 電子公文書をどう取り扱うか 当時、文書管理を担当していた私に情報化推進部から相談があった。国で総合行政ネットワークというものを始めるらしい。ついては電子公文書が流通するようになるから規程整備が必要だと。そこで「電磁的記録管理要綱」を作った。電子公文書を保存するための「電子公文書サーバ」を立てた。ここではナレッジマネジメントを意識して、すべての公文書を原則公開とし、職員が共有できるように規定した。ついでに「事務取扱規程」を改正して合議や通知をEメールでもOKにした。これだけでも当時は画期的なことだったが、なにせITの事を分かる管理職がいないので説明するのに苦労した。事実上ほとんど任されていたのでやり易かったけどね。ところがこれで終わらなかった。情報化推進部の話を聴いてるうちに、文書だけの話に思えなくなってきたのだ。これは行政の経営そのものを変えるかもしれないインパクトがあると。ITを使わない行革などありえない時代になると確信した。 「全庁を巻き込んでIT戦略を作ろう。」 国がe-Japan戦略を発表する半年前のことだった。 |
| 情報化とのコラボレーション 当時ITの門外漢だった私が@る〜むをバンバン動かしていたので、情報化推進部の人からは変な目で見られていたかもしれないが、実は情報化推進部内にもイントラに職員用のWebを作ろうというプログラムがあった。SWS(Sapporo 'Web System)と呼ばれる言わば職員ポータルの素案は既にこのとき出来上がっていたが、情報化推進部内でたな晒しになっていた。私は当時の担当者Kさんと何度も話し合い、そのプロジェクトがついにリリースされた。彼の強い思いに支えられ、当時はHTMLを書ける職員が少なかったにも関わらず、彼がボランタリーにHTML書きをサポートしてコンテンツを増やしていった。私もこの動きを支えようと、当時担当していた業務から「附属機関」のホームページを作成したり、文書ハンドブックをWeb化した。この頃、庁内広報のWeb化を広報部に説得したりもした。異動時期になると大量に紙で配られる人事異動の表も職員部に頼み込んでファイル提供してもらうようになった。 Kさんとは今でも飲むと必ずこの頃の苦労話になる。日々新しいことが実現して本当に面白かった。 |
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| 地方分権 地方分権の仕事は法ができて一段落していた。しかし、分権改革は「住民自治の進展」を課題として残していた。この思いは今のCRMに引き継がれた。また、この頃、分権時代にふさわしい組織・経営を考えて作った資料は後に「行政経営戦略」に採用されることになる。 |
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| 職員提案 職員提案制度をもつ都市は多いが、どこも提案件数が低いことと、提案の実現に課題を残していた。私は自分の担当した仕事は必ず改善することにしているので、ここでは規程改正を行い「提案マッチング制度」を作った。これは、提案者と関係部局を引き合わせ、提案内容の実現に向けたプロジェクトを作らせ、その進捗を行政部が管理するというものだ。制度を作った時点で私が異動になったため、その後機能しているかどうか不明だが、このアイデアも後に「行政経営戦略」に採用された。 この改善においても@る〜むで知り合ったメンバーやわいわいテーブルのメンバーにたくさんの知恵をもらった。一人でできることなんて高が知れてるのである。 |
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| 札幌市IT経営戦略move! いよいよIT戦略をつくることになった。会議で私がつくった草案を示した。「う〜ん、中身はいいんだけどさ、北川さんが作った戦略じゃ上が納得しないよ。外部の力を借りて作ろう。」都市経営室のY担当課長からアウトソーシングの提案が出た。最初はムッときたが(笑:Y課長はHRMの仲間)、ここでのコンサルとの出会いは非常に後々の私の成長に役立った。私の素案は結局コンサルに見せて一緒に戦略の屋台骨を作ることになった。 このとき「戦略」というものについて初めてきちんと勉強した。民間のビジネスに興味を持ち、様々な経営改革の取組みを学んだ。 戦略作りは外部有識者と議論をしながら、一方で庁内の公募有志と@る〜むを使って議論しながら、3ヶ月という驚異的なスピードで完成させた。プレスリリースというものも初めて書いた。戦略の取組みを成功させるために、人材マップを書いて何人ものキーマンに繰り返しアプローチをした。市長に直接メッセージを伝え、助役(CIO)には頻繁に相談に行った。ときには総務局の主要部課長を集めて推進体制の危機的状況を訴えたりもした。財政とはコスト面や単年度予算主義で対立もした。 ここには書ききれないたくさんの苦労をした。しかし、多くの仲間に支えられ励まされた。「move!」のロゴデザインを@る〜むで公募したり、「move!応援団」という会議室を作って「現場の職員一人ひとりがmove!しよう」と訴えた。実に多くの職員が呼応して力を貸してくれた。 しかし、すべてうまくいったわけではない。戦略をリリースしたのが2001年の4月だったので、予算措置がされておらず、この1年はほとんど具体的な成果が出せなかった。私は行政部にいながら歯がゆい思いをしてました。それでも気持ちが折れなかったことの最大の理由は、CIOである福迫助役がこの戦略に強い思いを抱いて、我々を励ましてくれたからだった。 今でも助役は会えば必ず我々の手を握り締めてこう言う。 「思いっきりやってください。何かあったら私が責任を取りますから。」 そういう人の下で働くのが夢だった。 |
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| 最初の講演依頼 この頃から、私に講演の依頼が入るようになった。講演は札幌市の宣伝になるし、外部の期待感は良い外圧となって庁内改革を押し上げるため、積極的に引き受けてきた。 実はこの頃、既に前出のAさんはいくつか講演をやっており、彼の紹介がきっかけで私はデビューできたのである。こうやってチャンスをくれる人がいたからこそ、私も今の仕事をやってられるのだと思う。 でもホントは私は極度のアガリ症なんですよ。 |
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| 人材バンク「Web★きらりちゃんとひかるくん」 IT戦略をつくるための会議室が@る〜むにあり、各局の代表職員がいろいろとアイデアを出し合っていた。その中には現HRM研究会“にゃむり”さんも、現@る〜む運営事務局の“ゆきまる”さんもいたのだが、そこで最も盛り上がったのが「庁内にITを使った人材バンクを作ろう」というアイデアだった。これは戦略の中の人材プログラムとして早速開発が行われ、実現に至った。ここでは、情報化推進部のY田さん(この人はIT戦略を一緒に作ったパートナーと言っても過言ではない。)をリーダーにプロジェクトが組まれ、都市経営室や人事課、職員研修所などのメンバーでコンセプト設計を行った。ちなみに「WebStar」は私が、「きらりちゃんとひかるくん」はY田さんが名付け親だ。 このとき、機能面で私が一番こだわったのは、「人材タイプの登録」と「人脈のWeb化」だった。 職員のタイプを「リーダータイプ」や「アイデアマンタイプ」などに分け、アイコンで登録し、タイプ別に検索できるようにした。プロジェクトチームや研究会を立ち上げる際に人材発掘に役立つと思ったからだ。 また、紹介したい人を簡単にリンク集のように表示できるようにして、個人がもつ人脈をWebリンクで表現した。「組織は人」だ。ナレッジを持っているのは人なのだ。人をつなげることが組織変革の大事な一歩だと考えた。現在までに500人が登録している(登録は任意)。 ちなみにこのシステム、商品として売ることを前提に開発したものである。投資額を売ることで回収しようと考えていたのだ。日経新聞にも取り上げられ、自治体や民間企業からも問い合わせがたくさんきたが、今のところまだ売れてないようだ。やはり武士の商はだめですな。 |
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| 人材戦略 人材バンク開発の頃、人材戦略について興味が高まっていた。丁度、その折に総務局理事から「職員向けのセミナーを企画してくれないか」と依頼を受けており、セミナーだけではつまらないので人材戦略を考えてみませんかと提案し、素案を作った。 この頃は、職員研修所に「eラーニングやりませんか?」のメールを何度も出していた。サイトや製品の紹介を繰り返して、会議で会えば必ずその話題をした。実現は意外と早く訪れた。札幌市は行動力のある人が多いなあと思った。この研修所の課長、実はいろんなことを仕掛けるときによく相談にのってもらっている人である。 |
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| HRM研究会 人材戦略の素案を作ったはいいが、いきなり仕事としてぶち上げるにはリスクが大きい。なにせ人事系の戦略づくりはタブーに挑戦するようなもので、都市経営室でもすんなりGOサインが出るものではない。 そこで前出のY課長と相談して「HRM研究会」を作った。ここから実績をつくってデファクトスタンダードにしちゃおうという寸法である。この研究会は今もなお続いており、研究成果は「行政経営戦略」にも多く反映された。 |
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| <2002> | 係長試験合格 某M係長の指導の元、有志で勉強会をしながら望んだ昇任試験に偶然合格(メンバーの中で一番成績悪かったんだよね)。このM係長も仕事やプライベートでもとても支えてくれている人。 2次試験の面接で「合格したら庁内で一番若い係長になるだろうから、あんまりカッコいい理論ばかり言ってないで、きちんと基本の部下指導を身につけなさい」と厳しい一言をくれた当時の人事課長は現在の情報化推進部長で私の上司になりました。(笑) |
| 公募人事始まる 職員部の粋なはからいで庁内公募制度がスタートした。第1弾はIT経営戦略のチームの公募だった。私も応募し(させられ?)て、情報化推進部へ異動になった。現在の私のチームのスタッフもこの公募によって異動してきた人たちです。(実はこの公募にもこっそり関わってたりするんだけどね。) |
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| CRM 4月に情報化推進部に異動してから私はCRM担当係長になった。前年のIT推進会議で「IT推進会議方針」の中でCRMとシステム監査を翌年の活動の中心にすることでCIOと合意し、CRMプロジェクトは初の「助役直轄プロジェクト」としてスタートした。 着任から自治体CRMの定義に取りかかり、「親切と節約」というシンプルなコンセプトを導き出した。そして、「市民と行政の関係性を変えていく」ことを通じて「住民自治を実現する」ことをゴールに据えた。これまでの自分の信念を、この仕事を通じて形にしていこうと決意した。 |
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| 行政経営戦略 5月には都市経営室が「新たな都市経営の取組み」と題して「協働都市」をゴールとする経営戦略wave!を発表した。この策定には、move!のノウハウや陰ながらHRM研究会の研究成果が生かされている。もちろん、策定担当はHRM研究会のメンバーの一人である。ここに札幌市の「双子の戦略」が出揃った。 |
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| ブランド戦略 札幌市IT経営戦略では、札幌ブランドの構築がひとつのビジョンに挙がっている。良い外圧は期待感を高め、内部の改革を押し上げる。オリジナル様式を作ってプレスリリースを積極的に打ち出し、IT経営戦略のホームページを作ってそこに掲載した。雑誌、新聞、Web、メルマガをターゲットに戦略の取組みに関する情報をどんどん発信した。もちろん、講演活動もその一環であるし、先進自治体とのアライアンスもその重要な取組みのひとつだった。 |
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| E8電子自治体市長会議 この1年前に私とY田さんとで横須賀市に訪れている。当時のH課長(横須賀の象徴的人物)との固い握手は今でも記憶に残っている。当初は2者間による業務提携を申し入れたのだが、最終的には8市によるアライアンスとなった。このE8のインパクトは札幌市を一気にトップランナーとして認知させただけでなく、中央やベンダーにも注目されることとなった。 これも庁内を説得するのに非常に時間がかかった。結果的に横須賀市が引っ張る形でスタートしたが、今後の札幌市の貢献度合によっては、全国の電子自治体業務に大きなインパクトをもたらす可能性のあるアライアンスと言えよう。 |
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| CIOが電子政府戦略会議に プレスリリースや雑誌への掲載がきっかけとなって、日経が毎年主催する「電子政府戦略会議」から本市CIOに講演依頼が来た。CIOにこういう話が来るのは何より嬉しい。最高のプレゼンテーションで世の中をビビらせてほしいと思い、気合を入れてパワポ資料を作った。助役も気に入ってくれて、当日は立ち見が出るほどの盛況の中、札幌市のIT経営戦略を世間に知らしめた。 その後も、情報化推進部長が他都市などで同様の講演をしている。このように自分以外の人の講演をプロデュースするのも実に楽しい仕事である。チームの士気がグンとあがるし、何より札幌市から有名人がどんどん出てくるのは嬉しい。私はこれからの自治体の差別化は人材にあると確信している。 |
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| 札幌市コールセンター これが私の現在の最大のお仕事です。ここには、これまで身につけたすべての手法を投入し、あらゆる人脈を駆使し、ほとんどの仲間に力を借りながら進めさせてもらってます。 @る〜むで経過報告したり、実験区を公募したり、コミュニティFMに出演してコマーシャルしたり、WebStarで協力してくれる職員を募ったり、インテグレーターをアウトソーシングしてプロジェクトマネジメントをガッチリやってもらったり、民間コールセンターのノウハウを学んだり。毎日がめまぐるしく過ぎていきます。 そんなコールセンターの中にもひとつこだわりのアイデアがあります。「感情ステータス」という仕組みです。終話時にオペレーターがお客様の感情の状況を「満足」「納得」「不満」「怒り」の4つに分類して記録するシステムです。これによって、リアルタイムでセンターの満足度が分かるし、サービスの改善点も見つけやすくなる。原課にエスカレーションする際にも、お客さんが怒っているかどうか伝えることができるので、2次的なトラブルを回避しやすい。 仕事の中に、こういった新しいアイデアを盛り込むのはとっても楽しいのです。 |
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| フロントガイドライン 顧客接点はコールセンターだけではない。窓口、内線電話、すべての顧客接点に共通するサービスガイドラインを設け、サービスレベルを公表することで、行政サービスは「あきらめず改善できる」ものとなる。 CRMの取組みのひとつとして、WHYNOTとの連携も視野に企画を練っているところです。 |
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| そして<2003>へ | 庁内分権 もう一人の助役が直轄する「庁内分権プロジェクト」のメンバーに指名された。御指名は現都市経営課長だ。座長は中央区市民部長で、@る〜むで何か問題が起こったときには必ず助けに来てくれる人だ。彼も前任は都市経営課長で、今回、コールセンター実験区の選定でも快く引き受けてくれた人だ。これは恩返しせねばなるまい。恩返し、縁返しはネットワークで仕事する者の基本だ。 庁内分権は行政の中だけの問題ではなく、顧客接点へのエンパワーであり、住民自治への橋渡しと捉えるべきだと思う。「コップの中の嵐はやめよう」それがこのプロジェクトでの私の第一声だ。 今後の展開が気になるプロジェクトである。 |
| One(すべてをひとつにするときがきた) 市民を前にしたとき、市役所がひとつのチームになること。これが住民自治の事務局としての市役所のあるべき姿です。これまでやってきたこと、そして現在あちこちで取り組まれていること、それらをひとつのゴールにまとめていく作業がこれから必要になります。 札幌市が新たな市長を迎える2003年度。 私自身も変化し続けながら、改革年表の先を綴っていきたいと思います。 |
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| つづく 2003.2.1編集 |